人生ではじめてスマートフォンというものをなくした。


私はそうでもないと思っていたのだがどれだけスマートフォンにいろんな生活のものを委ねていたのか実感する。ちょっと便利すぎて感覚が麻痺してるんだと思う。怖いスマホ


すぐに遠隔ろっくはしたしデータも初期化したのでまぁ安心ちゃ安心なんだが
なにせわたしの画像データ・・・たくさんの嵐と最近爆発的に増え続けているニカもしくは北山先輩画像・・・もし誰か見てたらひくだろうな。あはは・・・笑えない



今月の後半が休み少ないこともあり、新人さんフォローと2年目さんの論文フォロー、退院調整にICT、ケモプログラムにリーダー研修・・・連日日勤で帰ってくるのは22時すぎ、寝た時間も覚えてないのはまだ幸せなこと、眠りの女神だった私がまったく眠れない日もあり、そんで今日この日。まるで会社員じゃないか。いや、会社員か。こんなことが続いたのはあれだ、いわゆる疲労だ、最近疲れている。疲れるという言葉を使うのは嫌いだがしょうちゃんみたいにしびれたーという元気もあんまりない。けど気持ちで負けるとほんと敗北だからいっとこう、わたししびれてる。さんねんめつらい 3年目って試練なのか
試練だとしたらその先に患者さんの願いが少しでも叶う場所があったらいいな いや、叶う場所に一緒に歩かせてもらってたらいいな 娘さんの結婚式でバージンロードを歩きたい。車椅子はやなんだと。娘が望んでも嫌なんだと。その人にとって生きるとはそういうことなんだと。今手足にしびれは出てきてるけど普通に歩いてる。3か月後にどうなるか悟ってる風にも思えた。


「生きている」という基準や価値は人によってこんなにも違うのかと毎日思う。
「生きている意味がない」と話す人でもその人を大切に思う人はその人に「生きて欲しい」「息だけでもしていてほしい」と願う人もいるだろうし、
「本人が望むならはやく楽にしてあげてほしい」と話す人もいる。


わたしは…その人とその人が大切に思う人、その人を大切に思う人の望む生き方をサポートしたい。寿命を伸ばすことがすべてじゃない。副作用に苦しみながらでも頑張って生きる、副作用で辛いならもう治療をやめたい。どちらとも正しい。間違ってない。所属する科によってここはかなり違ってくるけれど、うちはわりと余命がわかりやすい。だから生きなきゃならない、生き方を選択しなくちゃいけない人をたくさん見てきた。サポートすることは選択肢を増やすということも含まれると思う。そのためにずっとでも勉強しなきゃならない。この仕事続けるならそんな覚悟が必要で、今それを第一段階として今試されてるってなんとなく思う