続・24

ダイアリを読ませてもらうと、感想はいろいろで。あーこんなこともあったのかーと楽しませていただきました。ありがとうです(^^)


前回のニッキの続きです

読みたいって優しく言ってくれた方、
いっぱいいらっしゃってくれて、本当ありがとうございます・・・自分が一番びっくり
あーもう優しすぎて涙チョロリだよ…甘えて、思うままに書きます(笑)
人が記憶できる、印象に残る文字数って結構少ないけれど、かなり長く書くと思います、ごめんなさい。書くのは確かに難しいけれど、なんか書かなきゃなんも始まんないなぁと思いながら書きます。辛口です。*1


なぜ、24時間テレビ障がい者が取り上げられるのか、その疑問はすべて私の個人的な経験からきているのですが。。。


小学校2年のとき、Mさん、30代の男性と出会った。印象は、すごくフレンドリーな人。
両手と左足を切断し、車椅子生活を何年も送っている方で、お話を聴いて、交流する機会があった。道徳の時間だった。わたしは道徳の授業がほんとに大嫌いで、なんでだろう、正しい答えを、狭い学校の教室という環境でさらに先生だけに求められている感じが本当に嫌で嫌で仕方なかった。でも、こんな人に出逢える機会になるんなら、それはとてもいいきっかけだったのかなって、その後、自分は思うんだけれど。


Mさんは、両手を使えないから、足でパソコンを操作したり、料理も足でする人だった。で、その授業は体育館で行われ、Mさんが足で缶のプルタブを開けるということをするということになり、それを2年生でみんなで見ていた。缶を足の指で開けた後、体育館に先生たちの拍手が響き渡る。わたしはそれをただただ呆然と見ていた。その後にMさんは言うんだ。


「これは私の生活のごく当たり前の一場面です。みなさんが缶を開けるときと同じ行為をしているだけなのです。拍手はいいのですよ。知ってほしいだけです。わたしの、ただの、生きる手段なのですから。」


と。
小学校2年生で、10歳にもならない自分のそのときの場面をはっきりと覚えているのだから、よほど衝撃的というか、印象深い出来事、ことばだったのであろう、「ただの生きる手段」。


わたしと同じように生きている、ただそれだけなんだ、と思ったように覚えています。そして同時に、自分が障がいをもつ人をそのまま見れていなかったということも、思い知らされた。


「不自由ではないんですよ、ただちょっとだけ不便なだけなんです。」
「何が不便って、不思議そうに見られる、人の目なんだと思う・・・」とも言ってた。


そのあとMさんのお母さんが家に遊びに来てもいいよって言ってくれて、何回か遊びに行ったり、学校で話したり、楽しかった。30代の人の友達なんていなかったから、まぁ不思議な感覚だった。私が思っている大人より、ずっとずっと楽しい人で、大人も悪くねーな、と思った。今思えばお母さんの話をいっぱい聞けたのも、すごく自分の糧になっている気がする。


Mさんは私が小学6年生のときに亡くなった。身近に「死」を初めて考えた瞬間だったかな。死因はお風呂での溺死。溺れても、自分で立ち上がることができなかったということだった。
お葬式のときにMさんのお母さんが、「あなたたちと出逢えて、Mは毎日楽しそうにしていたんですよ」と話されていた。めちゃくちゃ泣いたの覚えてる。ずっとずっと泣いてた。どうして、どうして、なんで大切なことを訴えようとしなくても訴えられる人が亡くなってしまうのか、どうしてわたしに大切なことを教えてくれた人が亡くなってしなうのか。医療とか福祉とか興味持ったのはこれも一つの大きなきっかけだったように思う。もっと、いろんな人が当たり前に生活できる環境ってなんだろうと思った。


大学生になってボランティア*2しても、いつも触れ合ってる友達と同じように、刺激を受けることがあるし、学ぶことがいっぱいある。障がいとかじゃなくって、みんな、同じようにね。実習先でお世話になった患者さんも、疾患や重症度はみーんな違うけれど、みんな、そのときどきを持てる力全部でがんばって乗り越えていることを知った。その家族も、みんな。同じように生きている。だからわたしだって、一生懸命考える。やる。自分の持てる力を生かしているときが、美しいのです。それは、取り立てて美しいとわざわざ言わなくたって、そう感じたのだから美しい。


わたしは、なぜ24時間テレビを受け入れられないのか。それは、あまりに断片すぎる表現をされているからだと思います。だって、テレビに出ている健常者が健常者の代表じゃない。それなら、例えば24時間テレビに出ている障がい者が、障がい者の代表ではない。なぜ精神障がいは取り上げられないのか。障がい者理解のきっかけという意識があるのならば、うーん、取り上げの仕方がもっと変えられるように私は思うんだけどね。いろんな意見があるだろうけれど、身近にいわゆる障がい者の家族さんが「売り物にして同情を仰いで何が楽しいんだろうね」と話す人もいるから、、、、それだったら本末転倒だよなぁ・・・。


何が正しいも、何が違うということもないのだと思う。ただ、なんだか、「それが正しい」とあの番組に訴えられている感じが受け入れられない(これは私の感じ方ですが)。なんだろう、誤解を恐れずにいえば、あの番組はもっと辞書的でいいの。こういう人がいて、こういう生活してるんだよ、って。それが障がい者も、健常者も、そういう分類なく表現できればそれでいい気がする(これは私の考えだけれども)感じ方はそれぞれでいいのに。わたしたちの世界は、障がい者じゃないのに、わたしたちが障がい者にしてしまっているのかもしれない。


もし、障がい者理解を訴えたいのならば、直接触れ合える機会を作ったらいいのに。一番いい方法だと思うんだけどな。タレントと対象じゃなくて、一般人が一般人と触れ合える機会を作った方がよっぽど、自分の目で本当のことを考えることができるんじゃないだろうか。あまりに過程がなさすぎる。過程がない結果を自分のものにしてしまうと、ロクなことが起こらない。わたしも知らず知らず、そうなってきているのかもしれないなぁ。


それと、もうひとつわからないのは、やっぱり「関わる」ということには、「責任」も伴う。タレントが関わった人たちに継続的に会いに行けるわけじゃない・・・もしかしたら公開されていないだけかもしれないけれどね。そう願ってやまないけれど・・・


ひとつにならなくてもいい、認め合えればただそれだけでいいと、わたしは思う。
認めあえたら、対等になる。何かが変わっていくんじゃないだろうか。



・・・拙い文章、長々と、最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。










>たまごさん
毎度、コメントありがとうございます。そして本当の気持ちを教えていただいて、ありがとうございました。そうですか・・・娘さんがそうおっしゃられてたのですね。あの番組が取り上げることで、新しい壁をつくることもありえるということを、分かってもらいたい一身で、まぁコメントなり毎年しているのですが、まぁ無理ですよね^^乙武さんもコメントされているんですけれど、やっぱりかわいそうというイメージを植え付ける可能性があると。乙武さんの意見が全てではないですが・・なんか、難しくてよくわかんないけれど、こうして意見を交わしていくことが大切だと思います。誰が正しいとかじゃなくって。もっとよい方法を考えていければいいですね^^

コメント、本当にありがとうございました。またいつでも待ってます(笑)

*1:もう最近エピソード研究とかしてるからちょっと文章量が大変なことになっているのです・・・

*2:知的障がいの子の療育に関わる