進化より深化

台風というのは日常生活を狂わす。「警報が出たので休講です」というアナウンスに「ここは小学校かそれとも中学校か」と小馬鹿にしつつ、しかし心の中は「やった」なんて思ってるあたり、自分は中学生で年齢が止まっていると再認識させられた。認めざるを得ない。昨日中学生に虫で自分が遊ばれたという経緯もあって、この説が有力だ。ちなみに私は二宮さんと同じく小・中学校の卒業が楽しみで楽しみで仕方なかった人間であると告白しておこう。

本屋に寄ってきた。Cutを読んだ。櫻井先輩が4つの顔を持っているそうな。
先輩を最近「先輩」と呼べるようになったのはここ最近である。
なぜか

  1. 自分より年上(至って普通な理由)
  2. どこかでこの人はとてつもなく尊敬すべき人だと分かっていた
  3. しかし「尊敬している」と認めたくなかった
  4. 「尊敬している」と認めたくなかった理由もよく分からない
  5. 先輩のように毎日をきちんと過ごしたいと思う自分を認められるようになった

今が「充実していない」というわけではない。櫻井先輩とお揃いのメーカーの聴診器を調達し(先輩がまねしたんだよ、わたしが先だもんねなんて意地を張ってみる最後までお揃いで嬉しいなんて絶対言わない)がつがつと毎日を送っている気になっている。そう、「気になっている」…


自分は周りからみると「まじめな人間」に見えるらしい。しかし実際中身は違う、間違いなく「そこそこな人間」である。「まじめ」と「そこそこ」にどんな違いがあるか。「そこそこ」には妥協がある。常に90%で運営されている人間それが「そこそこ」である。日本語で「ツメが甘い」なんて表現もあったな。「まじめ」というのは100%で運営している人間である。非常に大きな違いである。「そこそこ」を「まじめ」ととらえられるとどうなるか。200kgまでしか乗せられないエレベーターに合計210kgの人が乗って「ブー」なんていう警報音が鳴ったり、17:00が締め切りのレポートを17:10に出して5点点数が引かれるような、そんな感じだ。何かが「足りない」。しかしその「足りない」と感じる人間も少ないようである。今はそれでいいのかもしれない。現実それでやってこれている。しかしそれが許されないときがくる。それは他人に迷惑をかけることはもちろん、自分内でパンクするときが来る。断言する。きっとくる。いやむしろ今パンクしている。プシュ〜とかいう情けない音を立てて。なんとなくそれは自分で気付いているのに、今まで行動に移さなかったのはある種の「怖さ」みたいなのがあったのかもしれない。硬い人間にはなりたくないとかそんなところである。

ここで櫻井先輩の例を挙げてみよう。
先輩は「まじめ」な人間である。何をもって「まじめ」と定義するのかは分からないが先輩は「まじめ」である。その「まじめ」さをCutを読んで強烈に感じた。強烈に。ひとつ、「正直であること」がまじめである前提になければならないものである。先輩は「正直」である。包み隠さない。例えば自分のエゴとかそんなものまで先輩は先輩の魅力に変えていくんだ。弱みだってさらけ出してしまう。ムテキだ。

私は櫻井先輩が心の底から羨ましかったのだと思う。自分がやりたいことをいとも簡単にやってのける櫻井先輩にある種の嫉妬なんてしていたのかもしれない。っていうかそうか。「いとも簡単」なわけがない。櫻井先輩はまじめにこつこつ、花を咲かせる準備をいつだってしてるんだ、そう、いつだって。

周りが「まじめ」と思ってくれているうちに…もう少し櫻井先輩になろうと思う。もう少し、目指そうと思う。ピンチはチャンスだ。
いつでも前を走る先輩に感謝をする。


しかしいつも何を言ってるかわからない二宮さんの存在はこんなときに自分に一緒に寄り添っていてくれている気がして、いつものことながら安心する。
こんなときにあいばくんの笑顔を見ると自分が笑いたいと思えば全力で思いっきり笑えばいいんだと思う。あいばくんからはいつも「素直さ」を頂いている。

嵐は塩の船を出すのもブロックの船を出すのも苦手ではあるが*1助け舟を出すのはお得意なようである。

*1:はやく次の実験を