アリストテレスさんって偉大

看護技術を学ぶ上で「技術」の定義について知っておくことは不可欠。
かつての偉人さんが定義した技術についていろいろ文献をさわっています。


そんなときに見た日曜劇場。次のゼミはあそこで出てくる「スナイプ」は技術かどうかについて教授と話したいと思っている。(結構自由なんです)実際にあの機械は臨床で使用されてきているのですけど、あの機械の信頼性については専門分野ではないので言及しません。ちょっと調べてみるけど。


技術は対象に対してフィットしているからこそ技術だと思うんです。その点で「スナイプ」は技術ではない。なぜなら、対象が「人」であること。そしてそれを使うのも「人」であるから。スナイプを対象者にとって適切な形で使用できる、ということが「技術」だと思う。


これを踏まえた上で。渡海はCTを撮って、全身状態を見て、症例を見て。手術を1度は中断させて。当たり前なんだけど技術者だなぁと。こういう説得力を持たせるのは、二宮さんっていう「人」かもなぁと思いました。どこかで、「スマートフォンとかああいうものは、それを使える能力がある人が使うべきだと思う。そうじゃないと間違える。」って言ってたことがふと過ぎったんですよね。ちゃんと、ある言葉や概念の定義を噛み砕いて演じている。

スナイプを「誰にでも使える」と定義していたけれど、本当にそうだったとしたら。世の中に「技術」という概念はなくなってしまう。いつの間にか「科学技術」と「技術」が混同されてきていて、それを知らぬうちに使ったあるいは使える「つもり」になっている。


ということを考えると、信頼を寄せてくれている患者さんに対し、自分で学ぶこともせず安易に手術を受けるべきです、だいじょうぶです、と伝えた世良くんはだめだめですけど、患者さんの生き方に寄り添った世良くんはとてもいい技術者だと思いました。だから渡海は世良くんが急変に出くわしたときは条件なしで助けたんだよねぇ、、、


どうしても手術室とか救命とかはドラマとして人気が出るからわかるんだけど、そろそろ看護の本質に焦点を当てたドラマ、誰か作ってくれないかなぁ。今でも看護師は一般では「先生の指示を聞いて動く人」「注射する人」「血圧測る人」っていう概念なのかな。そりゃこういうドラマやってたら仕方ないよね。


、、、、、そんなこと言っておいてなんだけどわたしは「猫ちゃーーん」って呼ばれたい。プリント運びます。どこへでも。(二宮の指示限定)

だんだん生きやすくなってきた

昨日同期にふと話した言葉。
クラスで、とかグループでとか、すごく苦手だった。というより苦手なことを隠すしかなかった、と言う方が正確だろうか。
大人になって、仕事と働く場所を選べる。あ、でも会社の飲み会はやっぱり嫌い(最後だけ行ったけどさ)行きたくない人は行かなくていいよ。あの飲み会の、「楽しもう、楽しませよう」という気持ちに「強制力」が働いてるというところが嫌いなんです。同じ時間とお金を払うなら、わたしは大好きな人とこんなことをだらだら聞いたり話したりしたい。
こんなこと言ってると本当に自由になってるのか、と思うけれど、大切にしたい人を大切にできるような人付き合いをずっとしていきたいと思っている。それができないときもあったから。これからもあるのかな?それは嫌だな。好きなことや知りたいことも自由だし、お金があれば好きな場所へ、どこへだって行ける。嫌なことや不安なことだって選べる。苦労だって選べる。迷惑かけられたい人も選べる。それはもはや迷惑じゃないけど。自由に責任があるというのなら、この自由のためならどんなことでも責任取ります。


深夜に何故か書きたくなって殴り書きしました。

だんだん生きやすくなってきた②

今回の10代の頃からの場所を離れるという決断は「自由と責任」の「アンバランス」な部分から解放される唯一の手段だったのだと思う。自由が与えられないと責任を持つことはできないんですよ。でもジャニーズの人達は真逆のことを延々に繰り返してきた。責任の対価として十分な自由を与えられていた訳でもない。10代からそれを繰り返しているとわからなくなる。私は行動には意味があるとは思っているけれど、その理由は後付けになっていることも多いと思っていて。
例えば、家に帰りたい、という理由には家族の顔がみたいとか、おなかがすいた、とか眠りたい、とかいろいろあるのかもしれないけど、でもそれって後付けな気がする。家に帰るという行動はルーチンであり、大切な「日常」なんです。

彼らの10代からの「アンバランス」な過ごし方が日常であるとしたら。ある日そのアンバランスさに気付いた人は。どうなるのか。二宮氏の「嵐の自分だから仕事がきている」という考え方は本質であり、後付けであるような気もする。その「日常」から抜ける決断も、その「日常」を続ける決断も、どちらの生き方も大きなエネルギーが必要で、私には到底できない、と思う。そしてそのエネルギーがアイドルの憧れとか儚さとかに繋がっているのだとしても、そのエネルギー量が少しだけでも少なくなるような生き方ができるようになったらいいのにと願ってしまう。

さくらひらひら

今年は気持ち的にも現実にも桜の期間が長かった、と思う。こんなにゆっくりと写真を桜の季節を楽しめたのはいつぶりだろうか。


5年間勤めていた場所を離れるのはそれなりに勇気がいった。後輩たちを置いていく、という感覚が拭えきれなかったが、まぁそれはただただおこがましいだけであるので考えるのはやめた。それよりもわたしはわたしの道を。

無事に入学できたわけだけども、こんな恵まれた環境に自分がいれるのはいつも応援してくれる家族と友達、そして職場でお世話になった先輩とかわいい後輩たちのおかげっていえば簡単に聞こえてしまうけど本当に感謝してる。まさか相棒ともここまで一緒になるなんてあのときは思ってなかったなぁ、しあわせだ。また2年間よろしく。


来週は担当教授との最初のディスカッション。テーマは「大学院で学ぶとは」。こんなにゆっくり考えられるなんて楽しくて仕方ない。これからが大変だろうけど。


船舶企画、おおのさんがあんなに動揺したの久しぶり、いや、初めてみた。あのバランス感覚を敢えて言語化したり数値化したりなんて、そもそも意味の無いことだと思えてしまって踏み込まずにいるけど、おおのさんってもんのすごく賢い人だなぁ(言語化してるじゃないか)と幾度となく思っていたからあの成績についてはこちら側は驚きもしない。でもおおのさんって動揺しないように応用も含めて想像して練習して完璧に普段からした上で他者評価ではなく自己での客観的評価で満足度を決めているから自然に生きられているようにわたしからは見えるんだと思う。今回は合否として判断されるから緊張してたのかな。そこから櫻井先輩に発想を飛ばすのがおおのさんらしいけど。だからあのふたりは永遠にお互いにリスペクトな存在なんだろうな。

大学院試験が終わって、無事に合格して。
ほっと一息ついて風邪ひいたりして。
5年間、ずっと全速力だったんだなぁと思う。今更。
まだまだ、いろいろ仕事の引き継ぎはあるんだけど。
自部署や他部署でお世話になった方たちにご挨拶してると優しい、もったいない言葉をかけてもらったり、あんなに嫌で嫌で仕方なかったけど、最後だから飲み会にでも行ってみようかと久しぶりに出向くと、あー、この人こんな一面もあるんだなぁ、だったらもっとお話したらよかったなぁとか。去年は本当に仕事が嫌で嫌で、どうしようもなくて、好意を寄せてくれてたことに今になって気づいて、どれだけ自分のことも嫌いだったんだろうと思う。
ろくろくんが(アンナチュラルね)おかえりとさとみに言われて泣いていたけど、あの場所はわたしにとって辛い場所でもあり居場所だったのだと思う。
辞めると決めて、新しい場所へ向かう。やっと自分らしさ、というか生きてると思える今、これがよかったのだと、これを正解にしていこうと思う。看護の臨床と、教育を繋げる人になれたらいいなぁ。臨床の楽しさ辛さ難しさを、後輩達が少しでも共有できる架け橋になれればいいなぁと思いながら。あと1ヶ月。

これからなにをしよう

勉強もほどほどに願書書いてましてね。
(英語と格闘する毎日)
自分が大切だと思ってること、やってきたこと、
それを客観的にゆっくり考えたいっていうのもあるんだけども、一番は現場でがんばってるスタッフが、本当に患者さんに必要なスタッフの看護がもっともっと評価されれば何かが変わるかもしれない、ってそういう思い。

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